広く人材を求める ~中国の官吏登用制度の変遷~

広く人材を求める…いつの世もこれは変わらないようです。あの小説のみならず、漫画やゲームなどのいわゆる三国志もので有名な魏の曹操も「求賢令(きゅうけんれい)」という命令を発しました。それは「唯才是挙(【ゆいさいぜきょ】家柄や行いの善悪に捕らわれず、ただ才能のみを基準として推挙せよ)」という内容であり、彼の合理性をよく現わしています。しかし、これは制度としての官吏登用制ではありませんでした。

まず、曹操以前の官吏登用制度は郷挙里選(きょうきょりせん)という前漢の武帝(紀元前141年から紀元前87年)の時代から始まる制度であり300年も続いたため、制度疲労を起こしていました。

そこで、官吏登用制度の改正は、人生ほぼ戦いに終始した曹操でなくその子、曹丕(そうひ)の時代に陳羣(ちんぐん)が献策した「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」でなされることになります。

これは中央から派遣された役人(これを中正官【ちゅうせいかん】という)が、地方の有力な人物を郷里(きょうり)の評判などで探し、それを9つの等級(この階級を九品【きゅうひん】という)に分け、その後中央でその結果に応じて職位に就かせるというものでした。

しかし、この制度は中正官(ちゅうせいかん)の資質に左右されますし、評判で探すと言っても、一般庶民は世間の評判を得るなどということはほぼ無く、結局は地方の有力者、豪族の子弟が推薦で選ばれることになり、それが貴族化する要因となりました。

 この制度は問題があったものの、三国時代よりも後(あと)の時代は五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)、南北朝時代と国が乱れたこともあいまって、約400年も継続することになり、特に南北朝時代の南朝で六朝文化(りくちょうぶんか)という文化の担い手として貴族が活躍しました。

 けれども、400年後に隋という国がやっと統一を果たすと、何とか能力主義での登用法をということで試験による官吏登用制度である「科挙(かきょ)」が始まることになります。

しかし、この隋(581年~618年)とそれに続く唐(618年~907年)の時代までは、科挙が唯一の官吏登用法ではなく、貴族の推薦制度は残っていたため、貴族は存在していたものの、五代十国(ごだいじっこく)の動乱を経た宋(960年~1279年)の時代になり、「殿試(でんし)」という皇帝直々の面接試験が最終的に加えられ、唯一の官吏登用法として確立した後はこれが20世紀初めの辛亥(しんがい)革命直前まで続くことになるのです。

これに対して、西洋で試験による官吏登用が行われるようになったのは、17~18世紀であり、それまでは貴族の世襲でしたから、それに比べればかなり先進的であったと言えます。

ただし、その科挙も、3,000倍という超難関で、3年に一度の試験間隔、5浪や10浪も当たり前という試験の難関さから、何十年も受からないということも発生したため、受験のための勉強ができる環境にある人、つまりはやはり資産を持っている層でないと通らないという問題はありました。

 郷挙里選(きょうきょりせん)から九品官人法(きゅうひんかんじんほう)までの推薦方式から、個人の実力主義の試験制度である科挙へ、と言うのが中国史の官吏登用法の変遷ですが、やはり人の採用というのは古今東西を問わず困難なものだと痛感せざるを得ません。


著者:ティラーズ運営事務局

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